2013年6月24日月曜日

アンソロジーに参加します

『部活アンソロジー2 』 ファミ通文庫
8月30日発売

ファミ通文庫の部活アンソロジーに書き下ろしで参加します。
このアンソロジーは他の作家さんが去年の夏に書いた短編をまとめたものです。
そこに私はあとから加わるわけですから、何か総論的なものをやるべきだろうと考え、そういう方向で書いてみました。

どうぞよろしくお願いします。

2013年6月7日金曜日

本と本との話

最近、野球の本ばかり読んでいます。
同じジャンルの本を読み続けていると、読んだ本と本との間につながりが生まれてきて何だかうれしくなります。
そのつながりの例を近藤唯之『プロ野球名人列伝』(PHP文庫 1996)を基準としてお見せしたいと思います。
この本は、各項につき一人のプロ野球選手を取りあげる形式のエッセイ集です。

○「大沢啓二」の項
「親分」こと大沢は高校時代、地区予選で負けたあとで「球審の判定が気に食わない」という理由からその審判を便所でシバいたという有名な伝説の持ち主です。
その暴行の内容は近藤によれば、
[略]周りが気がついたとき、大沢は左右フックを主審の顔面に叩きつけていた。周りにいたレギュラーがとめなければ、大沢は左右フックのあと、右アッパーカットをきめていたかも知れない。
ということになっています。
しかし、 大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社 1996)によれば、殴ったのではなく、蹴りを入れただけのようです(蹴りだけでも本当はダメなのですが)。
近藤の見てきたような話はどこから出てきたものなのでしょうか。
ちなみに、大沢親分はその蹴りを入れた審判(立教大野球部員だった)の推薦で立大に進学します。
心温まるエピソードですね。

○「広瀬叔功」の項
広瀬は南海で活躍した俊足巧打の選手です。
彼は南海監督・鶴岡一人にかわいがられました。
それを象徴するエピソードとして、選手の結婚式の仲人を頼まれても断っていた鶴岡が広瀬のときだけは仲人を務めたという話が紹介されています。
一方、同時期に南海でプレーしていたのがノムさんです。
野村克也『プロ野球重大事件――誰も知らない“あの真相”』(角川oneテーマ21 2012)によると、ノムさんはその仲人を断られた一人だったようです。
このことをノムさんはかなり根に持っていて、「俺のときは断ったのに、広瀬のときだけやりやがってあのヤロウ」みたいな感じで語っています。
立場によって物の見方は変わるものですね。

○「江夏豊」の項
この項で近藤はあの有名な1979年日本シリーズ第7戦のいわゆる「江夏の21球」について言及しています(ちなみに近藤はこの日本シリーズを昭和44年としていますが、正しくは昭和54年です)。
しかし、同じ題材を扱った山際淳司「江夏の21球」(同『スローカーブをもう一球』角川文庫 1985)でテーマのひとつとされていたマウンドの江夏とベンチとの気持ちのずれが、近藤の視界には入っていないようです。
広島のリリーフエース江夏は1点リードの9回裏、ノーアウト満塁というピンチを迎えます。
ここで江夏はブルペンで他の投手が投球練習しているのを目にして、「俺を信頼していないのか」とショックを受けます。
このあたりの心理が山際によって丁寧に語られているのですが、近藤はこのことに一切触れていません。
むしろ、このピンチを迎えて古葉監督がマウンドに行かなかったことを江夏への信頼の証として称賛しています(信頼うんぬんはあくまで近藤の推測)。
何を語り、何を語らないかは筆者の自由ですが、江夏の激しい感情にくらべて「ふつうなら行うはずだと筆者が考えることを行わなかったという事実から筆者が推測したこと」というのは語る価値が低いもののように思えます。

○「豊田泰光」の項
1958年の日本シリーズは西鉄が巨人を3連敗ののち4連勝で破るという劇的な戦いでした。
その第5戦、3対2と巨人1点 リードで9回裏西鉄の攻撃、ノーアウト2塁で豊田に打席が回ります。
ここで1塁コーチャーズ・ボックスにいた三原脩監督が豊田に「おまえにまかせる」というサインを送り(この場面、近藤による)、豊田は送りバントを決めました。
この三原采配を近藤は「サイン発信不能に陥った」「自分から逃げた」「敵前逃亡」「指揮権放棄」と評価しています。
しかし、三原脩『風雲の軌跡』(ベースボール・マガジン社 1983)によれば、三原には豊田にバントさせようとする明確な意図があったようです。
三原によれば、豊田に「打って出るか」と声をかけたところ、豊田は「いや、ここはバントでしょう」といったというのです。
豊田というのは、三原によると「バントをしろ」と命じても素直にバントしない選手です。
しかし同時に、彼は試合の流れを的確に読み取り、自分が何をすべきか判断する力を持った選手でもあります。
ですから三原はあえて「打って出るか」と選手の裁量にまかせるかのようなセリフを口にすることで、結果的に狙いどおり豊田にバントさせてしまったのです。
これぞ「魔術師」と呼ばれた三原の真骨頂でしょう。
もちろんこれを「三原が後付けでいっているだけでは?」と疑うこともできます。
それでも、「敵前逃亡」とまでいうならば近藤は「三原の著書にはこうある」と紹介した上で、それを否定するに足る根拠を示すべきであろうと思います。
ちなみに、岡崎満義「中西太と豊田泰光」(スポーツグラフィック・ナンバー編『豪打列伝』文春文庫 1986)ではこの場面について「豊田はバントを命じられた」と語っていますが、これは誤りです。
したがって、そのあと四番の中西が凡退したあとで豊田が「クソッ! フトシめ! 初球を3塁ゴロなんか打ちやがって! こんなことならオレに打たせればよかったんじゃ!」と叫んで暴れた、とあるのも創作だと思われます。
すくなくとも豊田のセリフの最後の一文はありえません。
豊田は「自主的に」バントしたのですから。


短編をひとつ書き終えたので気分がいいです。